転職と仕事

41歳、今も未来も諦めないために

晴れた午後の日差しの中、そよ風に揺れる木々の緑と、地面に落ちる木漏れ日を描いた水彩画
tsuzuku

なんとか体を起こして、出勤した。

車を運転しながら、今日一日のこと、これから毎日続く残業のことを考えると、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
これまでに感じたことのない危機感だった。

職場に着いて、更衣室でクリーンウェアに着替えていると、上司の姿が目に入った。
おはようございます、と声をかけられて、同じように返した直後、言葉が口をついて出た。

「すみません。ご相談したいことがあります」

じっくり考えたわけではない。
何かを決心していたわけでもない。
それなのに、もう答えが決まっているかのように、言葉はすらすらと出てきた。

残業に上限を決めた日

その日の業務が終わったあと、私は上司と面談をした。

左足の皮膚の感覚がないこと。毎日の長時間残業で体が回復する暇がなく、慢性的な疲労が続いていること。
残業は毎日18時まで、特別なイレギュラーがあっても19時までにしたいこと。
それが認められないなら、退職を考えていること。

そういう事情ならと、上司は快く受け入れてくれた。
本心はわからないけれど、残業を強制するつもりはまったくない、という様子だった。

その数日後には、社長と直接話す機会があった。

「家庭の事情や、個人の体力、健康状態で、どれだけ働けるかには個人差がある。社員一人ひとりが働き続けられる、望む働き方をしてもらえたらと思っている。
誤解しないでほしいのは、残業の多い少ないで評価はしないということ。うちの会社には、残業している人が偉いと勘違いしている人が多いが、そこは変えていきたい。
残業の対価は残業代です。そのために1分単位で支払っている。残業を減らして、ほかの人より早く帰るからといって、昇給や賞与の評価には一切関係ないので安心してください。必要なら、短時間正社員という働き方もあるので活用してほしい」

社長の言葉どおり、その後の賞与は、減るどころか求人票に書かれていた額よりも多かった。

戻ってきた感覚

残業に上限を決めてから、幸いにも足の麻痺は3ヶ月ほどで回復した。

太ももの皮膚に触れたとき、感覚があった。
心の底からほっとした。

痛みもそれから少しずつ引いていき、1年ほど経った今では、ほとんど痛むことはない。

休日出勤についても、決めたことがあった。
会社のカレンダーであらかじめ決まっている土曜出勤は別として、臨時で増える休日出勤は断ることにした。予定があっても、なくてもだ。

臨時には、きりがない。いつまでも臨時のままだからだ。
年間休日が額面上は十分にあっても、言われるまま受け入れていたら、実際の休みはどんどん減っていく。
プライベートが削られていくことに、これ以上は耐えられそうになかった。

残業のない一ヶ月

私が残業に上限を決めたあとも、同僚たちの長時間残業は続いていた。
中には、私のことをよく思っていない人もいるようだった。それでも、上司だけでなく社長からも許可を得ていることは伝えてあったので、面と向かって何か言われることはなかった。

どう思われていても、構わなかった。

私が体を壊して、一生消えない痛みを抱えることになっても、会社も同僚も、世界中の誰も責任は取ってくれない。
仕事の代わりはいても、私の体の代わりはいない。
私の人生は、私にしか守れない。

そう思えるようになってから、周りの目はほとんど気にならなくなった。嫌われる勇気を、持つことにしたのだ。

ある月、生産スケジュールの都合で、一ヶ月ほど残業がゼロになったことがあった。会社から正式に、残業禁止の指示も出た。

私は、浮き立つような気分だった。
けれど職場では、日に日に苛立ちや不安の声が増えていった。

「いつまでこの状態が続くのか」
「今月は赤字だ」
「これでは人が辞めてしまう」

最初は、わけがわからなかった。
やがて、毎月の残業代を、家計の収支にはじめから組み込んでいる人が多いのだと気づいた。

半導体業界は、生産の波が大きい。残業が多い月があれば、少ない月もある。
私には、残業代を生活費に含めるのは、リスクが高すぎるように思えた。

私にも、大きな蓄えがあるわけではない。
ただ、派遣社員として働いていた数年の間にお金の勉強を始めていて、家計の管理ができるようになっていた。残業代がなくても、基本給の手取りだけで最低限の暮らしはまかなえると、計算してあった。

だから、あの朝、上司に相談することができたのだと思う。

消えなかった不安

それでも、将来の不安が消えたわけではなかった。

私が残業を減らせているのは、この会社の中でイレギュラーとして認めてもらっているからで、根本的な解決にはなっていない。

この先、定年まで何事もなく働き続けられるのだろうか。

あと10年もしないうちに、更年期の症状も出始めるだろう。
母はもうすぐ80歳になる。介護が必要になる日も来るかもしれない。
私の体力も気力も、今より増えていくことはない。
業界の浮き沈みで、賞与が減ったり、出なかったりする年もあるかもしれない。
正社員だから、真っ先に人員整理の対象になることはないにしても。

多少基本給が安くなっても、体の負担が少ない仕事の方がいいのではないか?

入社して1年が経とうとする頃、私はもう一度、自分の望む条件を紙に書き出すことにした。
34歳のとき、分室のカウンターで年表を書いたときと同じように、頭の中だけで考えるのはやめにした。

譲れないこと

入社前に決めた条件は、そのまま残っていた。
そこに、いくつかが書き加わった。

休日出勤はしたくない。
平日にも、自分の時間がほしい。
母との時間も、もうそれほど多くは残っていない。
恋人との週末の時間を削られたくない。
残業ゼロなら大歓迎。会社に協力する意味で、残業は月20時間、多くても25時間まで。
嫌々働きたくない。
将来に不安を抱えながら働きたくない。

そして、もう一つ。

定年の60歳まで、フルタイムでは働きたくない。

これは、初めて出てきた条件だった。
自分でも、驚いた。

21歳から40歳まで、私は好きなことを仕事にしてきた。
司書も、その後の分析検査の仕事も、私にとって仕事はいつも楽しくて仕方のないものだった。生活に困らないだけのお金があったとしても、給与なしで、体が動く限り続けたいと思えるものだった。

放課後等デイサービスでは、そもそも業務内容や職場環境が合わず、心が持たなかった。
けれど今の仕事は、適性はあるのに、体が持たない。年齢を重ねるほど、きっと難しくなっていく。

心と体。
その両方を一度ずつ壊したことで、私は自分の体にも終わりがあることを考えるようになっていた。

午後半休の一週間

ちょうど同じ頃、私用で一週間、午後半休を取ることになった。

1日目。午前の休憩時間に、あと2時間もしないうちに帰れるのかと思った。
退勤すると、外はよく晴れていて、日差しがきらきらと気持ちよかった。ちょうどいい風がそよそよと吹いて、木々の緑が揺れていた。
明るいうちに帰るのは、久しぶりだった。
心が軽かった。

2日目。ああ、今日もあと2時間しないうちに終わる。

3日目。午後が休みだと、体が楽だなあ。

そして、4日目。

毎日、これくらいの働き方ならいいのに。

その瞬間、社長の言っていた「短時間正社員」という言葉が浮かんだ。

もしも、短時間正社員という働き方を選べるのなら、定年まで働けるのではないか?

けれど、今の私にはそれを選べない。
十分なお金があれば選べるのに、お金がないから、選べないのだ。

本当にやりたくないことを、しないために。
NOと言うために。
自由のために、お金が必要だ。

自分の生きたいように生きることを、諦めたくなかった。

5日目、私は短時間正社員を目指すと決めた。

お金がなければ、選べない

私はこの会社で働きながら、経済的自由を手に入れることにした。

目指すのは、バリスタFIREだ。
生活費の一部を資産からの収入でまかない、足りない分を、無理のない範囲で働いて補う。
もともと、働くことは好きだ。心と体の健康を損なわない限りは、働いていたい。

考えてみれば、私の言う将来の不安とは、結局のところ老後の不安だった。
そしてそれは、老後資金の不安に尽きた。

お金。
時間。
健康。

今を充実させるか、未来を充実させるか。
私にとっては、この三つのバランスがすべてだった。

今も、未来も

平日の時間がほしい。休みがほしい。残業はしたくない。
これは、今の充実だ。

定年の60歳まで、フルタイムでは働かない。
これは、未来の充実だ。

今の時間も、未来の時間も、どちらも諦めたくない。

今の私は、司書をしていた頃とはまったく違う価値観で生きている。
20年近く、ほとんど考えずにきたお金と健康と時間に、ようやく向き合っている。

司書を辞めて、今年で4年になる。
38歳で、まったく違う業界と職種に飛び込んだ。偶然も重なって、41歳になる年に、納得できる条件で、適性のある仕事に正社員として就くことができた。

けれど、それで終わりではなかった。
司書を辞める前も、そして今も、私はずっと変わり続けている。
落ち着く日は、この先も来ないのかもしれない。

意識していても、していなくても、私は毎日何かを選んでいる。
そうやって、自分の暮らしを少しずつ組み立て直しているのだと思う。

私はまだ、途中にいる。

記事URLをコピーしました