37歳、元司書が放課後等デイサービスを1ヶ月で辞めた話
司書を手放して、最初に選んだのは放課後等デイサービスの児童指導員だった。
民間企業の、正社員としての採用だった。
惹かれたのは、療育という言葉だった。
一人ひとりに合わせた指導をしていくことに、意義を感じていた。
三日目の出勤を終えたとき、私はもう、辞めたいと思っていた。
初日のこと
初日は、ほとんど放置されたまま終わった。
誰かに紹介されることもなく、何をすればいいのかもわからなかった。
面接では、送迎の運転を一人で任されることはないと聞いていた。けれど、その初日からハンドルを握ることになった。子どもたちの家も、そこへ続く道も、まだ何ひとつ知らなかった。
支援員一人につき、子どもは二人と聞いていた。
実際は五人だった。
名ばかりの療育
その職場には、全体の計画も、子ども一人ひとりの計画もなかった。一日のスケジュールは、子どもたちが学校からやってくる直前に立てられていた。
子どもたちはお菓子を食べて、テレビゲームをして、帰っていく。
療育とは名ばかりで、託児所のかわりのような場所だったと思う。
期待していたぶん、がっかりした。
休み時間だけの距離
学校図書館でも公共図書館でも、私はずっと子どもと関わる仕事をしてきた。けれど、いっしょに過ごす時間は限られていて、学校なら休み時間のあいだだけ、授業で図書室を使うときも、こちらの指示はちゃんと通った。
新しい職場は、賃貸アパートの一室のような部屋だった。そこに子どもたちと詰め込まれて、一日を過ごす。言葉にならない大きな声が響き続けて、私は頭痛に耐えられず、耳栓をした。
子どもたちとの距離感も、うまくつかめなかった。
そうして気づいた。
私は、自分が快適でいられる範囲で、意思疎通のできる子どもしか受け入れられなかったのだ。
縮んでいく目標
辞めたいと思っても、すぐには辞められなかった。
お金のことを考えたからだ。正社員という言葉にも執着していて、入ってすぐに辞めたら損をすると思っていた。
定年まで、あと二十年。
そう考えて、ぞっとした。
十年でも、無理だった。
最初は、最低でも三年は勤めようと思っていた。それが次の日には二年になり、一年になり、半年になって、最後には、せめてあと三か月、になった。
出勤すればするほど、嫌になっていった。
私にとって仕事は、いつも楽しくて、やりがいのあるものだった。司書だった頃は、死ぬまで働き続けたいと思っていた。
こんなふうに仕事を嫌だと思うのは、初めてのことだった。
本が読めない
体の変化は、すぐに出た。
眠れなくなった。夜中に何度も目が覚めて、朝は早くに目が開いてしまう。
集中力が続かず、本が読めなくなった。文字を目で追うことも、書くこともできなかった。
前触れもなく、涙があふれて止まらなくなることもあった。
調べた症状は、適応障害の説明に行き着いた。
並んでいた項目のほとんどに、自分が当てはまっていた。
ある休みの日、同居している母に話しかけられた。何を言われたのかは覚えていない。
私は叫んで、わめいて、泣き出した。
母はそのとき、これはもう限界だと感じたらしい。
母は長く介護の仕事をしてきた人で、介護福祉士からケアマネジャーまで務めた。福祉の現場のことをよく知っていて、私には絶対に向かないと思っていたそうだ。
逃げるのは恥ではない
友人や知人の中に、適応障害を経験した人が何人かいた。
彼らは四度も五度も、辞めるようにと私を説得してくれた。
今ここで壊れきってしまったら、本当に立ち上がれなくなる。
早く逃げて。
逃げるのは、恥ではない。
入社して何日目かに、私は社長に退職届を出した。体調を理由にした。
ずいぶん引き止められたけれど、気持ちは変わらなかった。申し訳ないとは思った。それでも、耐えられるものではなかった。
月末までは在籍してほしいと言われ、私はそのとおりにした。
退職届を出してからの日々も、楽ではなかった。
四月三十日付で、私はその会社を辞めた。
入社して、ひと月にも満たなかった。
私が辞めてから二年ほどで、その事業所は閉業した。
正常な判断ができなくなる
あの一か月は、人生で初めて、心の底から嫌なことを、お金のために我慢した時間だったと思う。
本当に嫌だった。つらかった。
人は、あっという間に壊れる。
心身の健康を損ねると、何もかもが幸せではなくなってしまう。健康を犠牲にしてまでがんばるべき仕事なんて、きっとない。仕事というものへの考え方は、ここで大きく変わった。
あの職場の現実は、調べればわかることだった。実際に働いている人たちが、Xで自分の体験をつぶやいていた。
けれど、私は調べなかった。焦って、目の前の雇用に飛びついてしまったのだ。
それからは、職場見学や業務内容、ホームページや口コミ、その業界の雰囲気まで、調べられるものはすべて調べるようになった。思い描いていた仕事と違った、ということが、できるだけ起きないように。
あの一か月で、仕事で追い詰められながら、そこから逃げられなかった人の気持ちもわかるようになった。
逃げればいいのに、と人はよく言う。
けれど、おかしくなってしまったら、もう正常な判断はできない。動けなくなるのだ。
それでも、あの辛さを身をもって知れたことは、よかったと思っている。
三日間の熱
退職したあと、私はすぐに高熱を出して、三日ほど寝込んだ。
ストレスから一気に解放されて、気が緩んだのだと思う。
熱と体の節々の痛みでぼんやりしながら、私は思った。
心と体、どちらも健康でないと、何もできない。
働くことさえ、できない。
司書として働いた十七年、よく何事もなく働いてこられたものだと思った。ありがたいことだった。
当たり前は、当たり前ではなかったのだ。
もう、あの職場に行かなくていい。
そう思うと、心が本当に穏やかで、安らかだった。
私はほっとしながら、たくさん眠った。
