38歳、元司書が派遣社員になった話
派遣会社への登録は、放課後等デイサービスを辞めると決めてすぐにすませておいた。
司書も同じ非正規雇用ではあったけれど、私がこれまで働いてきたのは行政の嘱託や非常勤職員、会計年度任用職員ばかりで、派遣社員として働くのはこれが初めてだった。
元司書は初めてです
登録を担当してくれたのは、三宅さんという女性だった。
私が登録の書類を書いていると、三宅さんは「差し支えなければ教えてほしいのですが」と前置きをして、こう続けた。
「私も長く派遣会社で働いています。登録に来られる方は前職もさまざまで、みなさんそれぞれご事情があって転職されたり、派遣社員として働かれたりしています。でも、元司書の方にお会いするのは初めてなんです。どうして司書をお辞めになったんですか?」
ああ、やっぱりここでも知られていないのだな、と私は思った。
図書館で働いていたあいだにも、いつのまにか退職や転職をした人はいた。県や市の研修で、気づけば見かけなくなった人たちだ。数は多くなかったけれど、派遣社員になると決めて辞めた人の話は聞いたことがなかった。正社員に決まったから辞める、という人ばかりだった。
私は正直に話した。
司書の多くが非正規雇用であること。給与が低く、ボーナスも交通費も残業代も出なかったこと。3年で雇い止めになること。経済的に厳しく、数年前から悩んでいたこと。今回受けた図書館が不採用で、思い切って転職したものの、仕事が合わず、1か月で体調を崩して辞めることになったこと。
三宅さんは、日本の司書のほとんどが非正規雇用だということを知らなかったらしく、目を見開いて驚いていた。
本当に知られていないのだなあ、と今さらのように思った。
人と接しない仕事を
登録のときに出した希望は、家から車で30分くらいの場所で、倉庫などのピッキング作業をすることだった。
三宅さんは一般事務は希望されませんかと声をかけてくれたけれど、私は断った。
人と接することに、少し疲れていた。
登録をすませたあと、放課後等デイサービスで最後の2週間を過ごした。退職するとすぐに寝込み、ようやく動けるようになって三宅さんに連絡したときには、登録から1か月が経っていた。
ピッキングの仕事は、すでに別の人に決まっていた。
三宅さんは申し訳なさそうに「ごめんなさい」と言った。
無理もない。1か月も経っているのだ。
縁がなかったのだと思った。
お礼を言って電話を切り、さてこれからどうしようかと考え始めたところで、5分ほどして、今度は三宅さんから電話がかかってきた。
理科室のような職場
「ピッキングの仕事はほかにないのですが、tsuzukuさんが出されていた車で片道30分という条件に合う仕事があるんです。ご興味はありませんか?」
「仕事内容は、すごく簡単に言うと、理科の延長のようなイメージです。職場は理科室のようなところで、分析装置を使って化学薬品の品質検査をします」
「すぐに決めなくても大丈夫なので、もしよかったら、お話と見学だけでもどうですか?」
「わざわざありがとうございます。考えてみます」とだけ返事をして、電話を切った。
困惑と、少しの好奇心。
理科?
化学薬品の分析?
え、何の会社?
車で30分のところに、そんなところあった?
自分では見つけられなかった仕事
5分ほど考えただろうか。
不安より、好奇心のほうがわずかに勝った。
世の中には、私には想像もできない仕事があるらしい。普通に生活していたら、きっとその現場は部外者には見られないし、合法的に中を見られる機会なんてそうそうない。社会見学を兼ねて、見るだけ見てみたらどうか。
どうせ派遣なのだ。まだ働くと決めたわけじゃない。
嫌なら断ればいい。
やってみないとわからないものだ。
自分で向いていると思って選んだ正社員の仕事は、まったく向いていなかった。自分で選んだ派遣の仕事にも、縁がなかった。
そうしたら、自分の知らない仕事を、他人からすすめられた。
自分では決して見つけられなかった、選べなかった仕事だった。
私は三宅さんに電話をかけ、見学を希望しますと伝えた。
山の中の工業団地
見学に行ったのは、5月中旬のある日の午後だった。
市街から車で30分ほど北へ走ると山があり、その山の中に工業団地があった。そんな場所があることを、私はそれまで知らなかった。
後から調べてわかったことだが、そこは大手化学メーカーの、半導体関連製品を扱う製造所だった。
従業員はほとんどが男性で、女性は一般事務の正社員が2人と、分析の仕事をしている派遣社員が1人いるだけだった。ほぼ全員が女性だった図書館とは、まるで逆だ。
なんだか変な感じがした。
派遣先の人と30分ほど面談をして、簡単に仕事の説明を受けたあと、分析室に案内された。
なるほど、理科の実験室とはよく言ったもので、そこには学生のときに見たような、流しのついた実験台が並んでいた。違ったのは、分析室の中にさらに二つ、クリーンルームがあったことだ。
クリーンルームを見るのは初めてだった。
検査を担当しているのは、正社員の男性3人と、その派遣の女性だった。品質保証の担当者が、クリーンルームや扱う薬品について説明してくれた。製造している薬品を検査するために、また別の薬品を使うのだという。どれも見たことのないものばかりだった。
見学と説明は20分ほどで終わり、私は分析室を後にした。
化粧のできない部屋
元の部屋に戻ると、派遣先の人が言った。
「クリーンルームの中は、化粧ができないんです。女性にとっては、お化粧できないというのは嫌なんでしょうね。ここは山の中ですし、人が来ても数日から、長くて3か月で辞めてしまって、なかなか人が居つかないんです」
そして、こう続けた。
「すぐに決めなくても大丈夫ですので、帰ってゆっくりご検討ください。もしよろしかったら、ご連絡ください」
私は、あの、と言った。
「私、ここで働きたいです」
派遣先の人と派遣会社の担当者は、そろって驚いた顔をしていた。
理由は、それはそれはシンプルだった。
やってみたかったのだ。
分析室で見たものは、どれも新鮮だった。触ってみたかったし、使ってみたかった。
これは何?
これはどうなるの?
なぜそうなるの?
頭の中は、そんな問いでいっぱいだった。
向いているか、向いていないか。お金のこと。この先のこと。
そういうことは、何も考えなかった。
放課後等デイサービスでくじけて、未知のものに臆病になっていた心が、反応していた。
