41歳、お金と引き換えに削れていったもの
41歳で正社員になり、今に至る。
この記事を書いている時点で、入社して1年半が過ぎた。
求人票どおりの条件
求人票の内容に嘘はなかった。
特に給与面は、希望以上だった。
賞与は3ヶ月分以上あればと思っていたが、実際には6ヶ月分以上を受け取ることができている。夏と冬の賞与のほかに、決算賞与が支給されるからだ。
昇給とベースアップで、基本給も契約時より大きく上がり、今のところインフレ率を上回っている。
淡々と続けられる仕事
業務内容には、狙いどおり適性があった。
やりがいは特にないし、魅力を感じているわけでもないが、それについては何の不満も不安もない。全然続けられる。
給与を受け取っている以上、勤務時間に労働力を提供するのは当然のことで、私はただ黙々と仕事をしている。
分析検査ほどではないが、完全な単純作業でもなく、そこそこ頭を使いながら、淡々と生産スケジュールをこなしていく。
人間関係も安定している。
合う人、合わない人はどこの職場にもいるし、時には揉めることもあるが、それは当たり前のことだと思っている。
基本のスタンスは、誰ともつるまず、雑談はしない。プライベートには干渉しないし、させない。
愚痴や悪口は絶対に言わないし、言っている人には近づかない。
ただし、挨拶と報連相はしっかりする。
職場の人には、同僚以上のものを求めない。
そうして入社してからは何の悩みもなく、順風満帆――
なんていうことは、なかった。
左足の痛み
入社3ヶ月目にして、体を壊した。
仕事は基本的にずっと立ったままだ。作業のときに少し身長が届かず、背伸びをした状態で体をひねっていたせいかもしれない。
3ヶ月目のある日、左の太ももの前側から側面にかけて痛みが出て、皮膚の感覚が麻痺していた。
一ヶ月経っても回復せず、痛みも麻痺も悪化していった。
痛みのない時間がなかった。
常に体のどこかが痛み続けるなんて、今まで一度もなかったことだった。
そのうち、車のブレーキを踏むのにも痛みを感じるようになった。
経済面では安定していったのに、暮らしの質は下がる一方だった。
悪化したらどうしよう。
歩けなくなったらどうしよう。
働けなくなったらどうしよう。
不安で、仕方がなかった。
残業ありきの生産スケジュール
それに輪をかけて、長時間労働が慢性化していた。
契約時の話では、残業は「多い時で42時間、男性を中心に希望者から」とのことだったが、実際は最低でも42時間、多い時は60時間に近い運用だった。
私は、時間外労働は雇用主からの相談と働く側の承諾があって成り立つもので、通常業務でイレギュラーが起きたときに、まれに対応するためのものだと思っていた。
けれど、生産スケジュールは42時間の残業ありきで組まれていて、予備の時間は一切設けられていなかった。
不具合が出ればすぐに1時間の残業。人員もぎりぎりなので、一人休めばまた1時間の残業。
定時は17時のはずなのに、早く帰れても19時がほとんどだった。
朝8時に始業して、残業で20時まで。もはや12時間労働だった。
明治時代の女工がそういう労働環境だったと、本で読んだことを思い出した。
いつの時代だ。今は令和だぞ。
睡眠時間は、確保できなくなっていった。
会社も長時間残業を減らそうとはしているようだったが、私の毎日は変わらなかった。
回復できない週末
休みは原則として土日だが、土曜出勤のある月が何回かあり、それは入社前から納得していた。
けれど、最初に決められていた土曜出勤とは別に、臨時の休日出勤が増やされることがあった。週末に体を回復させる日がなくなり、体調を崩しやすくなっていった。
自分の時間が、なかった。
起きて、食べて、働いて、食べて、寝る。それだけの生活だった。
非正規時代には感じたことのない疲労だった。
慢性疲労とはこれのことかと、ようやくわかった。
これまでに見てきた、長時間残業による過労死や過労自殺のニュースを、初めて我が身のこととして実感した。
人は、疲労で死んでしまうのだ。
体の限界
早くも私は、将来に不安を覚えていた。
作業内容に問題はない。適性もある。
けれど、この働き方で、定年まで体が持つのだろうか。
生き物としての体の限界を感じた。
そして、入社して半年に差しかかったある朝。
目が覚めて起き上がろうとしたのに、体を起こせなかった。
目は覚めているのに体が重くて、動かそうとしても動かない。
びっくりして、声も出なかった。
あ。やばい。
このままだと、壊れる。
そう思った。
